2011年4月28日木曜日

大阪で故郷(山形)を想う

創業して間もないのに、思い切って大阪、神戸方面を訪ねた(4/25, 26)。
お世話になった方々にご挨拶したり、旧友にあったり、と有意義な2日間であった。
東北生まれで、修学旅行もない高校を出た私にとって、関西は遠い土地であった。
就職してからも数えるほどしか訪れていない。
なにか見物するところはないかな、などと思いながら、宿泊したホテルに近い、ということで、中之島にある適塾へ足を運んだ。
緒方洪庵が開いた学塾で、福沢諭吉も塾生だった、ということぐらいの知識はあったが。。。。

蘭書を読むための辞書が1冊しかなく、奪い合うように使用した、とのこと。電子辞書全盛の今からは想像もできない。
入塾者600名ぐらいの名簿が残っているらしく、それらが都道府県別に集計されていた。
やはり大阪周辺(もしくは以西)からの入塾が多いのは当然だが、なんと山形から13名が。
ちなみに、秋田1、青森0、岩手4、宮城5、福島5、東京18、千葉7、、、、(この数字は、私のメモなので、誤りがあるかもしれません)。
ついでに調べてみたら、その13名のうち7名は米沢藩出身だとか。
たしかに、米沢は「東北の長崎」などと呼ばれていた、と郷土史家に聞いたことがあった。
当時、どんな思いで米沢からこの大阪に学びにやってきたのか。使命感からだろうか。向学心からだろうか。

ちょっと、故郷のことを自慢したくなった。
(そして、そのことを、本という形で世間に広められないだろうか、と考えてみたい。)

2011年4月21日木曜日

十数年ぶりの母校

独立してから、事務所の形を整えるのに忙殺されていたが、ちょっと一息ついたこともあり、八王子市南大沢にある首都大学東京を訪ねてきた。出版でお世話になった先生にご挨拶するためであった。
「首都大」とは、なかなか呼び慣れない。やはり私の母校は「都立大」だな、などと思いながらの十数年ぶりのキャンパス訪問であった。
事務所のある九段下駅から、都営地下鉄線・京王線に揺られながらの“小旅行”。学生時代に一人暮らしをした、下高井戸駅、仙川駅、調布駅、を通るたび、子供のように窓のほうに身体を180度回転させては駅の周辺を眺めてきた。九段下から60分で、大学の最寄り駅である南大沢駅に到着。
大学に入った92年ごろは、空き地が目立った駅周辺もいろんなビルが立ち並び、「街」になっていたのは嬉しかった。
キャンパス内に入ると、ほとんど当時のままの景色。
真新しかった建物も少し黒ずんで、かえって落ち着いたかな、そして、だいぶ緑豊かになったな、との第一印象。植樹して間もなかった当時の木々が南大沢に根を張ったということだろう。おそらく、平成生まれであろう学生とすれ違うたび、20年近く前のことを思い出した。
いい先生、いい友人、いい環境に巡り合えたことに改めて感謝。独立して新たなスタートを切ったこの時期、母校を訪れたことは、改めて原点に戻るきっかけになった。

2011年4月15日金曜日

独立するということ(3)

14日にようやく電話が開通。同時にPCもネットにつながる。
これで、ようやく世間との距離感が縮まった感じがする。一安心。
といっても、すぐに電話のベルが鳴るわけではない。
これで、たった5坪の部屋だが、ようやく仕事場らしくなってきた。お世話になった方々へも少しずつ「独立」のご挨拶を遅まきながら始めた。どう受け取ってもらえるか不安でいっぱいだが、とにかくは1冊目をきちんと世に送り出すことでしか、出版社としての存在証明は出来ないと思う。そう、ラーメン屋さんは、おいしいラーメンを提供してはじめてラーメン屋と名乗れるように。
「独立」した、といっても今はまだ「名ばかり出版社」なのだ。銀行で口座を開こうとしたら、お断りされたのだ。そう、「実体」がないとダメらしい。法人の登記簿を持っていっても何の意味もないらしい。世間は厳しいのだ。

2011年4月12日火曜日

独立するということ(2)

「勤め人」を辞めてから、まだ半月しか経っていない。
実態から言えば、まだ「独立」したとは言えないだろう。正確には、「独立」の準備に入った、というだけかもしれない。生産活動には従事できていないのだから。
一日でも早く軌道に乗せたい、と気持ちだけは前のめりになるが、焦っても仕方ない。気持ちだけで経営ができるものではない、と自らを落ち着かせている日々だ。
さて、
ここ1,2週間で実感したのは、いまやインターネットなしでは仕事も生活もままならない、ということ。
ノートパソコンを持っていても、それがネットおにつながっているか否かでは、価値が全く異なるのだ。
新しく借りた事務所がまだネット環境が整っていないこともあり、何とも心許なく感じている。
逆に言えば、ネットにつながってさえいれば、どこにいても同じ、なのだ。
(いま、このブログは自宅の食卓で書いている。昨日は、事務所に行ったものの、ネット環境を求め、千代田図書館で仕事をした…。)
働き方、がいつの間にか大きく変わってきているのかもしれない。
「独立」したことで、働き方そのものを自分で決めることができるようになったのはありがたい。もちろん、実際に富を生み出せなければ「働く」ことにはならないわけだが。

2011年4月9日土曜日

まだまだ始まったばかり

「勤め人」でなくなってから、1週間。
朝から晩まで自分の責任で動く。この緊張感はなんだろう。
私の場合、まだまだ動くだけで、それが「仕事」、すなわち経済活動に直結していないから、少々情けない。
しかし、まだ「独立」して数える程度。
これからが本番だ。
7日には、娘が小学校に入学。家から徒歩10分余り。校門まで送っていった(入学式へは参加しなかった。ほとんどのパパは参加するのかもしれないが…)。
6時半に目覚ましをセットして、笑顔で就寝。よほど、学校という社会が楽しみらしい。
予定通り、目覚ましのベル2回で、飛び起きていた。寝る時も起きた時も満面の笑み。
子供から教えられること多々ある。
娘も父も、それぞれのスタートとなった4月。まだまだ、始まったばかり。いや、最初が肝心か。

2011年4月3日日曜日

独立するということ

このブログもだいぶ間が空いてしまった……。
この期間、大きな決断をすることになった。
新しい社を立ち上げるかどうか、ということをあれこれ悩み続けたのである。思考は廻った。行きつ戻りつだった。
それで、どうしたか。
新しい出版社を自分で立ち上げることにした。
どれだけ大変なことか、無謀なことか・・・それは他人に言われるまでもない。
しかし、決めた以上、精一杯、そして何より“楽しく”やることだけだ。
結果は後から付いてくると信じたい。

独立する、ということ、それは「決断」と「責任」を自分で担う、という意思があるかどうか、かもしれない。
独立へ向けた準備をしながら、日々、そのように感じた。
事務所を借りる、出資金を払い込む、法人化の手続きをする、備品を買う……。
そして、お世話になる〔なった)方々へ御挨拶すること、そこでは私という個人が試されているのだと思う。
31日に、これまでお世話になった会社とはお別れした。
社長以下、社員の皆さんに、終業後、社内の打ち合わせテーブルで、お別れの宴を催していただいた。
葡萄酒で乾杯。2年9カ月の間、同じ空間で時間を共にしたという事実は大きい。
最後にこうしてお別れの「儀式」をしていただいたことに何よりも感謝。

1日は、静かに自宅のある八千代市で過ごした。新しい事務所に電話がまだ通じない、というのも一つの理由。
そして何より、(脱力感で)身体が都心に向かわな買った、というのが正直なところだろうか。
2日(土)は、31日にお別れしたはずのK社長の好意で、「引っ越し作業」完了。新しい事務所を、見ていただく。
ここで、精一杯働き、時折、笑顔でお会いするのが、何よりの恩返しなのかもしれない。
これからも引き続き見守っていただきたい。