2010年8月25日水曜日

貧しさで命を落とす人がいる社会とは何か。

猛暑が続く今年の夏、暑さで命を落とす人のニュースが目に付く。熱中症にかかる、ということだが、その陰に「貧しさ」に原因があるという場合、何ともやるせない気持ちになる。20日付の朝日新聞1面では、長男と二人暮らしだった76歳の男性の死亡に関して報じていた。記事によると、二人の収入は父親の年金(2カ月で十数万円)のみで、月5万5000円の家賃を払うと残るのはわずかな食費のみ、電気、ガス、電話は10年ほど前から解約していたとのことだ。長男は15年前に腰が悪くなり運送会社を辞めていたという。
数日前から、体調の悪化を訴えていた男性のため、この長男は氷と薬を買ってきたという。わずかなお金を工面したはずである。その氷の冷たさに男性の顔は和らいだという。しかしその数時間後に息を引き取る……。
こうして、記事を読んで改めて築くのは、家賃の高さだ。もし、この5万5000円が他に使えたら、と考えてしまう。都市部の住宅費はあまりにも負担が大きすぎる。住宅問題の解決こそが第一ではないだろうか。住宅政策といった問題を本気で考えるべきかもしれない。国土交通省と厚生労働省という縦割りの影響だとしたら、これこそ政治の出番である。

2010年8月19日木曜日

私の道程21(10年間の東京生活に小休止――中締め)

1991年3月に高校を卒業し、予備校入学のため米沢から上京して以来、2001年4月に県庁職員として故郷に戻るまで、ちょうど10年間を東京で暮らしたことになる(もちろんその後再び上京し現在に至るのだが)。この10年の暮らしはその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。2010年の現在振り返ってもそう確信する。
お茶の水の駿台予備学校での日々、南大沢の真新しい都立大学での5年間、大新聞に入りたくてもがいていた時期、右も左も分からずフランスに1カ月滞在した最初の渡仏、神楽坂の小出版社での日々、どれをとってもその後の財産となっている。
「財産」となる経験って? どんな些細な経験でもプラスになるよ、なんていう答えは聞きたくない。私にはそう思えないのである。「思えない」というだけで確信はない。まさに2010年の今、その答えを探している。

この項で、ひとまず「私の履歴書」は中締めとしたい。72年に生まれた私の2001年まで歩みを、2010年の時点で振り返った。ここで書いたことは、ほんの一部。記憶からすっぽり抜けていること、思い出すのが嫌でわざと触れなかったこともある。また、時期が来たら「補訂」してみたい。

2010年8月17日火曜日

私の道程20(故郷へ戻る)

なかなか現状に満足できないのが性分らしく、小出版で法律書を作り続けることに少しずつ疑問を持ち始めたのである。かと言って、大新聞、大出版への移籍は厳しかった。とりわけ90年代後半はバブル後の不況であり、新規採用、中途採用は抑え気味であった。
時折、故郷の山形を思い出すこともあり、田舎でじっくり暮らすのもいいかしら、などと考えるようになったのである。たった3人の会社ということで、「刺激」がなく、自分を大きな舞台で試したい、という思いもあった。そういう点では職種にこだわりはなかったのである。
しかし、選択肢としては、マスコミ関係以外には、公務員しか思い浮かべることができなかったのである。消極的選択、といったものだった。
ちなみに、妻・みちよとはすでに一緒に生活していた。籍は入れずに、葛西のマンションで生活をしていたのである。当時、みちよは銀座の法律事務所で事務員として働いていた。二人とも一人暮らしをするより安上がり、そんな「合理的な」判断もあってのことであった。
そんなこんなで、2001年4月から山形県庁に勤めはじめることになったのである。前途洋々、という気分にはなれなかった。これで東京ともお別れか、といった感傷的な気分での引っ越し作業であった。県職員としての抱負? 的確にこたえられない自分がそこにはいたのである。