2010年7月29日木曜日

私の道程19(無職のまま卒業、そしてメーデーの日(5/1)に就職)

96年末から97年にかけての時期である。
就職先が見つからないまま大学4年が終わりに近づきつつあったが、あまり切迫感はなかった。鈍感だったのかもしれない。大学入学の失敗、法学部への転部、など、ストレートに進む、ということがそれまで一度もなかったことも影響しているのかもしれない。
来年また新聞社に挑戦しようかな、それとも公務員でも受験しようかな、そんな感じだった。
3年時に転部したばかりであったから、卒業までの必要単位もあり最後まで大学には通っていた。もちろん、卒業旅行、なんていう雰囲気ではなかった。
しかし、無事卒業、となった途端、急に自らを顧みたのである。
4月に入り「無職」になった焦り、である。確かに6月の公務員試験を目指して勉強してはいた。だが、そもそも、新聞社なのか、公務員なのか、どちらにも気持ちが固まっていないのである。たとえ合格しても実際に働くのは1年後、そしてそもそも合格の保証はどこにもない……。
そんなとき、新聞の求人広告が目にとまったのである。たった3行の求人。「悠々社」という耳にしたことのない出版社。社会科学書の編集、という一点に気がひかれたのだろう。思ったら行動あるのみ。履歴書をさっそく送ったのである。
それからはもう早い。面接、即採用。ついこの前まで、新聞社だ、公務員だ、なんて言っていた人間がたった3人の出版社へ入ることにしたのであった。何がそうさせたか。
恐らく、他者との繋がり、を求めたのであった。法学部に移ってから、ひたすら走っていた。それこそ、他者に勝つことだけに集中していたのであった。そして、自分の力不足をただただ認識せざるを得ない結果の連続であった。理学部時代の友人は、一足先に就職したり神学したり。心から話せる大学の友人は法学部におらず、就職については孤独な戦いだったのである。公務員を進路に考えてからは、ひたすら問題集との格闘・・・。
卒業した瞬間、全くの肩書のない人間になったことを「恥じた」のである。親の仕送りにだけ頼っていいのか、何も生産活動に従事していないではないか、そんな思いだった。そんなときに、悠々社の求人が目にとまり、面接に出かけたとき、S社長との面談は、自分が社会に求められている、そんな思いにさせたのである。何もかも自信を失っていた私の話をS氏は真剣に聞いて対応してくれた。まさに大人の対応だった。一人の人間として見てくれたのであった。そうだ、会社の規模なんて関係ない、自分が求められているところでやればいいではないか、そんな気持ちになったのである。
5月1日のメーデーが出社日。50歳を過ぎたばかりの社長、30代半ばの経理の女性、そして私の3人の小さな会社であった。
出版に興味はあったものの、何ら予備知識はない。走りながら覚えろ、そんな指導方針だった。いきなり、本多勝一さんの本を担当。入社数日後には本多さんと打合せである。無謀なことをさせるものだ。でも私は嬉しかった。本多さんに会える、ということよりも、S社長が、私をそのように一人前の人間として扱ってくれたことに対してである。
その後、私は紆余曲折の歩みをし、今はまた本の世界にいるが、その基本はすべてS氏から学んだ。校正の仕方なんていう実務的なことは当然だが、人との話し方、手紙の書き方はもちろん人間としての振る舞いまで彼から自然に教わったことは実に多い。知らず知らずにS氏の影響を受けていることを、15年以上たっても感じる。

2010年7月14日水曜日

私の道程18(大学3,4年。就職先決まらぬまま卒業へ)

無事、法学部政治学科への転部を果たした。直前になって、本当に大丈夫だろうか、なんて遅まきながら不安になった。どこにも保障はないのだから。学部事務室の職員のかたに直接「合否」を尋ねた気がする。まさか、掲示板での発表などはなかったはずだし。
4月になったらほんとうに怒涛の時間割だった。普通の人ならある程度の必修科目は1,2年時に履修済みのはず。政治系の科目はまだしも、法律系の必修科目はたいへんだった。基礎が分かっていないわけだから。当時はとにかくジャーナリズムの世界に進みたいという一心で、法律系科目は軽視していた。民法、刑法をきちんと学ばなかったのは後々悔やまれるのだが、憲法(石川憲治先生)、行政法(兼子仁先生、磯部力先生)、国際法(森田章先生)などは手元に受講ノートが今でも残っている。石川先生の憲法は「高尚」だった。兼子先生の行政法は、「行政法は図解可能」ということで、きれいな板書とともに分かりやすかった。
政治系の科目はほぼすべてを受講した。半澤孝麿先生の西洋政治思想史ゼミに入ったが、それこそ右も左も分からず毎週土曜日のゼミに参加した。登山を趣味とする半澤先生の提案で、ゼミ終了後にその足で高尾山へ訪ねたことも思い出のひとつである。「民主主義」をテーマにしたものだったが、ジョン・ダン『政治思想の未来』を皮切りに、トクヴィルの『アメリカの民主主義』、シュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』などを講読した。この手の本を読むのは生まれて初めてだったかもしれない。
当時の都立大は、昼夜開講制といって、昼間部(A類と称していた)の者も夜の講義も受講できたので、朝から晩まで時間割が埋まった。最後の授業が終わるのが21時10分だったかと思うが、当時は人影もまばらで開発途上だった、八王子の“奥地”南大沢駅からアパートのある下高井戸までの京王線の車中は、疲労感や寂しさよりも、「今日も勉強したなあ」という満足感のほうが勝っていたような気がする。
途中から入り込んだということもあり、法学部内に特定の友人が出来なかったことが、唯一のそして最大の心残りかもしれない。
前に述べたように、ジャーナリズム界への進路を第一に考えていた。マスコミ志望者は、当時でさえ、大学3年の秋ごろから準備をしなければいけなかった。ただ、3年時に内定、なんていうことではなく、あくまで4年の春の試験へ向けた勉強会への参加、と言ったらいいのだろうか。マスコミ対策講座、と称した作文の書き方練習などである。これは勉強になったし、刺激になった。最初のころはまったく書けないのだ。情けないくらい原稿用紙の升目が埋まらなかった。みんなで読み合いながら講師の講評を聞くわけだが、今にでも記者になれそうな人がいるわいるわ。でも、良い文章を読むことで、コツ、といったものを掴んだような気がした。例えば、「わが国の100年後」なんていう題で800字を書く場合、決して大上段に構えた内容にしてはいけない。自らの経験などに引き寄せて、具体的な事柄から書き起こすのである。例えば、100歳の祖父母がいれば、彼らを題材に、、、といった具合である。
大学4年の5、6月の土日は、各新聞社の試験で埋まった。1次の筆記で落ちた社もあれば、2次、3次の面接まで進んだ社もあった。しかし、結局どこも受からずに秋の試験も終了したのであった。

2010年7月7日水曜日

私の道程17(トゥールでの1カ月)

大学3年の夏休みを利用したフランスへの短期語学留学は、私にとって初めての海外渡航となった。成田空港に行くのももちろん初めて。一応、APEFという団体での渡航だから、集合場所などを定められての行程でった。トゥールへの留学組はおよそ20人ぐらいだったと思う。だいたいが同年代。しかし、私以外はすべて女性。引率として、フランス語の教師がついていくというシステムだったが、われわれには青山学院の石崎晴己先生が引率して下さった。学生と1か月も行動を共にして下さったのである。今から振り返れば、藤原書店から定評ある訳書を次々に出され始めるころで、お忙しい合間をぬっての「お仕事」だったのではなかろうか。
さて、パリに数日間滞在し、一路トゥールへ向かった。
トゥールでは、語学学校のそばにある学生寮に寝泊まりした。美しい街並みはすぐに気に入った。プラス・プリュムローと呼ばれる広場を中心に街が形成され、徒歩でぐるりと廻れる。パリの喧騒とは異なり、中世にタイムスリップした感じすらあった。テレビもない生活だったため、なおのこと、そう感じたのかもしれない。当時はパソコンもインターネットもないわけで、日本のことは全く頭から除外されたのであった。日本で何が起こっているのかなど全く分からなかったのである。もちろん、国際電話をかけたのも1,2度程度。そういう環境におかれたこと、今から考えると貴重なことだった。
ところで、肝心の授業である。クラス分けの試験をされて、即授業開始。文法の知識があったから、ペーパー試験は恐らくそれなりの点数を獲得したのかもしれない。実力以上のクラスだった。隣はメキシコ人の女性。同世代で、将来はアフリカで国際協力の仕事をしたいということだった。確か、ペリラという名で、今でもはっきりと彼女の顔が思い浮かぶ。小柄でいつもスニーカーを履いて闊歩していた。
1カ月はほんとにあっという間だった。ちなみに、フランス語のレベルがその後どうなったかは問わないでほしい(いつかもう一度勉強をしようと考えてはいる)。
夕食はすべて外食だった。たった一人でビストロに入ってメニューを見て注文する、ムッシュが「ボナペティ」と美しい料理を運んできて、「トレビアン」と満足げに笑顔で御礼をする……それらの行為がいつの間にか普通にできるようになった。ワインを当然のように毎晩口にしていたような気がする。
たった1か月のトゥール滞在だったが、数日間だけの旅行やパック旅行では得られない経験だった。何より、街を行き交う人々の笑顔は忘れられない。生活を、日常を楽しんでいる雰囲気が全身から湧き出ているようなのだ。ちょっと大げさかもしれないが……。パン屋、タバコ屋の店頭で会話を楽しむ人々、昼間から広場のテラスでワインを飲む老夫婦。市場で野菜を買うにも互いに目と目をあわせ、「このリンゴは甘いよ」なんて声をかけられるのは普通の出来事であった。しかし、コンビニでの買い物が普通になっていた私にとっては新鮮だった。生まれ故郷の山形でさえ、そんなのんびりした雰囲気はないのであったから。
おそらく、15年たった今でもトゥールの街並み、生活者の笑顔はそのままではないだろうか。
トゥールのことで付け加えるとすれば、妻みちよとはここで知り合ったことになる。学習院大の仏文科の学生として参加していたのだが、何気ない会話をしたのが始まりで、そのまま現在にいたっている、というわけである。
彼女のほうは、何とか今もフランス語を続けている。
いずれ、娘を連れて3人でトゥールを再訪したいと念じている。

2010年7月5日月曜日

私の道程16(フランス(語)との出会い、そしてトゥール行き)

第2外国語として、フランス語を受講した。これは、予備校時代、「数学科ならフランス語かな」、なんていう予備校講師の話を真に受けて、何の迷いもなく選択したのだった。英語など決して得意科目でなかったが、語学の勉強そのものは好きだったので、1,2年時はそれなりに勉強した。授業が面白かったということもある。
1年時の担当が、宮下志朗先生、井田進也先生という一流の先生だったことも多分に影響している。お二人とも、理科系の学生だからと言って決して手抜きせず、丁寧にフランス語の基礎を教えて下さった。フランスという国が一気に身近に感じられたものである。お二人の博覧強記ぶりは、授業からも感じられた。宮下先生が東大に移られて、テレビなどでも御活躍なさっている姿は、授業での雰囲気そのままである。中江兆民研究でも有名な井田先生の授業は、時に、「さくらんぼの実る頃」(Le Temps des cerises)などのシャンソンを一緒に歌ったりするなどフランスに一歩も二歩も近付く気分になったものだ。2年時の担当は、窪川英水先生と藤原真実先生だった。窪川先生の授業は、フランス映画を見ながら、フランス人の生の発音に触れるというもので(当時『ふらんす』で映画の対訳コーナーを連載なさっていたと記憶している)、ロマーヌ・ボーランジュなどの女優の名を知るきっかけになった。藤原先生は、当時まだ専任講師ということだったが、今は准教授として都立大(というか首都大)で御活躍のようである。
さて、そんな素晴らしい先生の授業を受けたのに、単位を取るためだけ、と考えるのはもったいなかった。語学のひとつはものにしたいな、という思いもあった。そんな時の転部の決心。「法学部生への準備期間」ということで、時間はたっぷりあったから、アテネフランセへ通うことにしたのである。NHKテキストの裏にある広告をみたのだと思う。誰に勧められたわけでもなかったが、毎週土曜日の週1回、4月から通い始めた。文法はある程度習得済み、ということで、授業には十分ついていけた。これに気を良くして、夏休みには、フランスへ、と、またまた思い切った決断をしたのである。海外に一度は行っておきたい、という思いもあった。当時はバブル崩壊したとはいえ、まだまだ海外旅行ブームといったものがあった。昨今の内向きの日本社会、というイメージとは全く異なり、特に女子学生の卒業旅行は海外、と相場が決まっている雰囲気だった。それこそ、映画だって邦画よりも洋画が常に人気上位であり、大学の新設学部は「国際」と冠するものが多かった。
夏休みの1カ月を利用して、トゥールという街に滞在したのである。APEFというフランス留学を支援する団体を通しての申し込みであった。高校の世界史で「トゥール=ポワティエ間の戦い」と聞いたことがある、という程度の知識でのトゥール行きであった。1カ月間、学生寮に寝泊まりしながらの生活であった。